brazil2005

植松直哉君が新道場「ネクサセンス」をオープンしました。

おめでとうございます。これからは植松君の可能性を存分に発揮し、格闘技に賭ける情熱と想いをそのマットの上に広げていって下さい。

私はオープンパーティには出席出来なかったのですが、多くの格闘家が集まるにぎやかなパーティだったようですね。

道場オープンに添えて、少し想い出話を書かせて頂こうと思います。

植松君は柔道、サンボ、ムエタイ、MMA、BJJとあらゆる格闘技を学び、それぞれの分野で輝かしい成績を残している数少ないマルチファイターの一人です。

私の師匠の平直行先生のような天才肌の格闘家です。

現在の植松君は、自身のアイデンティティーの軸にBJJを据えているとは思いますが、植松君のBJJの理念は、単なるスポーツ競技の範疇に収まるものではなく、武術に携わる者として私も多くの価値感を彼と共有しています。

植松君は私を柔術の師匠と公言してくれています。所属が違う柔術家に私が黒帯を授与した唯一の人であり、今も師弟の信頼関係を強く感じています。私の持てるあらゆる技術を、何百回という乱取りを通じて伝えることが出来た柔術家の一人でもあります。

彼との出会いの記憶はおぼろげですが、1997年頃、中井祐樹先生が主宰するパラエストラの昼柔術であったかと思います。私達世代の柔術家は、みんな昼柔術で最初に出会っている事が多いです。

当時の私は白帯でしたが、すでに中井先生から青帯をゆるされ、注目される選手としてBJJの練習に取り組み始めた植松君は、スターの風格を漂わせていました。今思うとその時の彼はまだ高校生でした。私は何の運動経験もないまま20歳を過ぎてから柔術をはじめましたので、小さいころから柔道やレスリングで活躍していた選手のみなさんが輝いて見えたものです。そんな中でも彼のオーラは別格でした。この話は植松君に今まで一度もした事がありませんね。

年下なんだろうけど、どこか威厳があり、私が口を聞けるような存在には感じられず、昼柔術では何度かニアミスした程度で乱取りをした記憶は実はありません。

それから特に接点もなく、2年ほどが経ち、次に交流の機会を持ったのが2000年でした。その時の私は紫帯を巻くに至っており、国内外でそれなりの実績を残すところまでたどり着いていました。当時の練習仲間であったPUREBRED大宮の野口君と、前年度に優勝した柔術の団体戦の連覇に向けて、出場するメンバーを集める相談をしていました。

まず当時セミリタイア中で、合気道の練習を主にされていた和道さんを口説き、そして私の同門であり正道柔術クラス最強の一人であった山崎剛君、野口君の同門であり後のコパドムンド王者にもなるシッシーこと宍戸君に参加してもらえることにもなりました。出場要件の5人のメンバーは揃ったのですが、最大6人までメンバーを登録出来るということで、和道さんが最後の一人として当時かわいがっていた植松君を入れようと提案してくれました。

和道さんの話をするとそれでまたひとつ物語が出来てしまうのですが、和道さんとの出会いも昼柔術でした。最初に乱取りさせて頂いた時は当たり前ですがコテンパンにやられまして、しかし私の動きも気に入ってもらえたのか、名前を覚えて頂き、その後は正道柔術クラスにも遊びにいらしてくれて、所属の違う私達に分け隔てなく本場ブラジルの技術を指導して下さいました。

しかしご本人は(今も理由は知らないのですが)、その時すでに競技からは一線を引くと決めておられたようで、そんな勿体ない事はさせたくないと、私と野口君で口説き落として何とかチームに入って頂き試合に出てもらいました。その後、結果として和道さんは競技者として完全復活を果たすことになりました。

話は戻りますが、当時そのような和道チルドレン的な存在が各道場に点在しており、おそらく植松君もその一人であったろうと思います。いやもしかしたら中井チルドレンであったかもしれませんが、とにかくあらゆる先生方、先輩達から技術を吸収し強くなっている真っ最中だったと思います。

団体戦前にチームで顔合わせ的な練習会をやったかどうかは覚えておらず、当日会って始めて正式に挨拶したような気もします。いずれにせよ、こちらも格闘家っぽくなってから改めて出会った植松君の印象は、最初に会った時と変わらぬイメージのままでした。

そして最初に彼の口から出た言葉は、「チームに入れて頂いてありがとうございます。非常に恐縮しております」的なものでした。奢りがない誠実な人間であると、その最初の言葉ですぐに分かりました。それは今に至るまで一貫してそうです。本当に強い者が持つ余裕すらその時感じました。

その大会は無事私達のチームが優勝出来ました。全員が大活躍でした。植松君の試合は1試合だけでしたが戦慄を覚える内容でした。対戦相手は私も良く練習させて頂いた事のある実力者でした。試合巧者で知られる対戦相手にポイントのリードを許していた植松君が、アキレス腱固めを一閃。基本的に練習でもほとんどタップしない方だったのですが、その時はたまらず悶絶タップしていました。そしてしばらく立てなくなるほどのダメージを負っていました。

これが植松君との二度目の接点でした。そしてその後は、どこかで会えば話をする程度の仲ではあったと思いますが、特に練習を共にする機会はないまま時が過ぎました。

2002年には、私が黒帯に、植松君は茶帯になるところまでお互い成長していました。2003年からは、私はさらなる実力アップのために和道さんと多くの練習を共にする必要性を感じ、和道さんの昼の練習会に参加させてもらっていました。その練習会には私を含む他道場の実力者が集まっており、植松君も参加していました。

練習会には和道さんの弟子のナオさん、弘中、荒牧、宮口さんなど強豪が揃い、私もそこにマッチョドラゴン石川さんを合流させたりと、どんどんメンバーの層が厚くなってきました。そして遂にチームとしてのジャパンファイトチーム(JFT)を発足させたのです。植松君との本格的な交流と練習もそのJFTからスタートしました。意外かもしれませんが、お互い相当な熟練者になってから一緒に練習し始めたのです。

JFTでは本当にハードな練習をこなす事が出来ました。人生で二度最大の練習期があったとすれば、昼柔術時代とJFT時代を挙げられます。ハイレベルな練習により、私の実力も過去最高のレベルに達していたと思います。夏のブラジル修行へ行くたびに、「JFTの方が練習になるな」と実感出来たほどでした。

それだけの練習を一緒にやっていた訳ですから、メンバーとは心も通じ合い、とても仲良かったです。みんなで一緒に飲みに行ったりスパ行ったり旅行へ行ったり、今思うとあれは現実か?と思うほど仲良かったですね。いや今もみんな普通に仲良しなんですが、旅行行ったりとかはもう出来ないよな、という意味で(笑)。

メンバーの中でも植松君とナオさんは、競技柔術以上にグレイシー柔術に多大な興味を持っており、私はJFTの練習時間外にはセルフディフェンスを教えたりしていました。植松君はMMAでも実績のある選手なので、手首を取ってこう返すとか、本当に意味あるのか的な技には全く興味がないと思っていたのですが、むしろその真逆で、格闘技というフィールドにおいてはあらゆる可能性を排除せず、貪欲に誰よりも多くを学ぼうとしていました。

そして時は2005年、おそらくこの年が植松君の柔術人生にとって大きなターニングポイントになったのではないかと思っています。JFTメンバーはこの年も例年通り世界選手権に合わせたブラジル修行を行いました。毎年人数が増え、メンバーは色々な組み合わせでアパートを借りて住むようになったのですが、確か2005年は早川、石川、植松で同じアパートに住んでいた期間が長かったです。桑原君、トオルさんも後半の何週間かは一緒に暮らし、最大5人くらいで共同生活していた記憶があります。毎年楽しかったですが、あの年はいつも以上に楽しかったですね。気分はトキワ荘でした。

植松君はこの年、世界選手権には初参加でした。いきなり茶帯でのチャレンジでしたが、結果はみなさんご存知の通り3回勝利して決勝まで進み、決勝戦で佐々君に敗北して銀メダルとなりました。その時はマットサイドまでコーチパスで入る事が出来たので、植松君には私が、佐々君には中井さんがセコンドに付き、力の限り応援しました。両選手と何度も練習をしたことがある私は植松君の勝ちを確信していたのですが、佐々君のその日のパフォーマンスは超人的でした。完敗だったと思います。スパイダーガードから脱出出来ず、悶絶する植松君と何度も目があったのですが、私にもアドバイスが見つかりませんでした。

世界選手権を終えて、帰国までの数週間の日々はみんなそれぞれの修行に当てました。植松君は現在も交流が続いているフレジソン・パイシャオン選手とその師であるオズワルド・アウベス先生の下で、充実した練習の日々を送っていました。

昼はみんなでビーチへ行ったり、洗濯を済ませたりし、夜は私はアリアンシへ、植松君はアウベス道場へ、石川さんはブラザで練習し、時間があえば帰ってから一緒に飯を食い、毎晩夜遅くまで話し込みました。こういう話を書くとそれだけで涙が出そうになるのですが、時間を忘れて友と語らった想い出は、いつまでも鮮明に残っています。

ある夜、植松君と夜中の3時くらいまで食卓で話し込んだ日がありました。今までの格闘技人生を振り返って語る植松君は、特に情熱を注いできた修斗への想いも語ってくれました。が、しかし修斗は競技であって技術ではない、自分は色々な格闘技を器用に学んできたが、格闘家としての自分のアイデンティティーはどこにあるのかと考えた時、自分は空っぽだと、そんな内容の話をしたかと思うと、彼は涙ぐみました。

植松君は感情が高まると、試合に勝った時も負けた時も涙を流す事がしばしばあります。月並な言葉ではありますが、一生懸命に努力してきた者にしか流せない涙だと思います。

格闘家としての己を問うた時に感じる苦悩も、誰よりも真面目に、ひたむきにそれと向き合ってきた人間だからこそ持つ、特別な感情ではないでしょうか。

そしてその日を境に、植松君は柔術家として生きる腹をくくったのではないか、私はそう思っています。 ブラジルの世界選手権の決勝戦という大舞台は、これまでの彼の人生の中でも最高峰の経験のようでした。もう一度そこへ到達したい、そして今度こそ勝利をつかみ取りたい、そんな想いを熱く語っていました。

帰国後すぐに、私は植松君に私からの黒帯を巻いて欲しいと伝えました。植松君は快くそれを受け取ってくれました。茶帯でまだなすべきことがあると思っていたかもしれないので、受け取ってもらえるか心配でしたが、すごく喜んでくれました。

私にとって彼への黒帯授与は、惜しみなく全ての技術を伝えていく決意を固めたということでした。私を第二の師匠のように慕ってくれている柔術家はたくさんいるのですが、植松君はそれを公言してくれている唯一の存在なので、私もその思いに応えていこうと思いました。

その後のお話は、最近まで続く話になりますので、また何か別の機会にでも。

植松君、ようやくの道場オープンだね。新たな旅の始まりを心から祝っています。

君が探し求め続けた事のその答えは、その無限の可能性を秘めた道場で、君がこれから出会う多くの生徒や仲間達と共に歩み、探し続けていって下さい。

お互い道場を持ち、家庭を持つ者として、これからは一緒に練習をする機会はそんなに作れないかもしれませんね。

しかし時間がある時はまた共に汗を流しましょう。

それでは。 

早川光由